会長 村上 處直

 今回、若い社会学の研究者、吉川忠寛君に事務所の将来を託すに当たり、私のこれまで歩んできた計画領域での防災研究の道のりを綴りたいと思います。

 私は、1962年に建築計画原論の研究室で建築音響工学の修士課程を修了する当時、都市計画原論という研究領域があっても良いのではと考え、新しい進路を求めていました。その時、東京大学工学部都市工学科が設立され、その設立に努力された都市計画学の第一人者、高山英華教授の都市防災研究室に「都市計画の領域で計画サイドからの防災」という条件で採用されました。多くの仲間や先輩からは、全く異なる研究領域で大丈夫かと、危ぶまれましたが、私の中では、空間の「物の理」現象の研究が建築空間から都市空間へ拡がっただけで、違和感はありませんでした。1964年の新潟地震が発生するまでは、なかなか研究の目標が定まりませんでしたが、建築・都市空間の災害現象研究とその対策提案の道を歩む事になりました。高山教授に「技術者としてではなく計画者」として研究を進めるよう指導され(それは人間の存在を中核に据える研究)、それを大切に都市防災研究を進めてきました。その時、人間の洞察力を活かす、都市の安全診断システムとして「都市安全管理システム」の方法論を考えていました。

 その後、しばらくは高山研究室の研究員として、東京都防災会議や消防庁消防審議会など、新潟地震後始まった首都圏地震対策の検討の場に、高山教授の代理として出席し、災害調査や災害対策の検討を手伝って、災害現象の知見を広めました。新潟地震直後に描いた「四日市市臨海部防災計画」は余りにも常識を超えた緑地帯構想で、多くの都市計画専門家たちの叱責を受けましたが、高山教授だけが評価してくださり、公害防止事業団へと結びつき、あちこちのコンビナートで市街地との間の緩衝緑地帯が造成されるようになりました。1968年の十勝沖地震現地調査では、東京都防災会議の立場で十和田市の協力を得て「石油ストーブ等出火機構調査」を行い、東京で地震が発生し、もし石油ストーブの出火率が1.32%だとすると地震対策が全く成り立たないことから、地震動で火が消える装置を提案し−対震自動消火装置−が開発されました。十勝沖地震直後から横浜消防を手伝い、「危険エネルギー」(横浜市)という都市空間のデータを活用して対策を検討する−今様の言葉で表現すれば−地理情報システムの「手書き版」を作成しました。新潟地震における軟弱地盤と地震被害の問題から始まった首都圏などの地震対策で、都市構造、地盤などから考え、安全に避難できる場所も無い江東デルタ地帯が取り上げられ、1969年に「江東地区再開発基本構想」が都の事業として決定されました。

 その間、私は1970年に災害調査や災害対策のシンク・タンク、コンサルタント事務所として、「防災都市計画研究所」を設立しました。この年は大阪天六のガス爆発があり、大阪万国博覧会が開催されるなど、話題の多い年でした。高山教授の「パイオニア的仕事をやるなら手伝う」という言葉に励まされて防災の仕事を進めてまいりました。大阪万博が終わった時、大蔵省の国有財産中央審議会の席で、高山先生が「これだけの規模の跡地利用には都市計画的配慮が必要だ」と発言されたことから、大蔵省で「都市計画について」というテーマの講義を依頼されていました。しかし、直前になって先生は私に代わりに講義するようにと命じました。四日市市の防災計画で「都市計画家としの資格がない」とレッテルを貼られた人間なのにと抵抗しましたが、許されず講義を引き受けました。私は覚悟を決めて「村上處直の都市計画論」を話しました。その結果、理財局の国有財産中央審議会作業部会の専門員になり、筑波研究学園都市跡地、基地跡地の利用大綱計画の作成作業に13年間携わり、原則緑地・公園などオープンスペースとして、過密市街地の‘ゆとり空間’を創り出しました。1971年のアメリカ・サンフェルナンド地震の際は、東京都と国の調査団が一緒に行動しましたが、私の発案で国の調査団は各省から一人ずつだす調査団結成をしました。このことは江東防災再開発で特別な予算を組む時役立ちました。1972年は大阪の千日デパート火災、マナグア直下型地震、日本のコンビナート災害続発などに触発されて、防災遮断帯整備計画などいろいろな防災対策調査の検討が始まりました。江東再開発の計画が進むにつれ、日々の街づくりに安全化の遺伝子を入れる、不燃化促進事業の必要性を感じ、墨田区の都市計画で戦略的防火地域の指定を進めました。1976年の酒田市大火後ようやく都市の不燃化促進の必要性が理解され、不燃化助成のための「防災建築事業計画」作成費補助が1978年宮城県沖地震の年に認められました。この年は東海地震のための大規模地震対策特別措置法も公布されました。この宮城県沖地震直後の素早い対応に驚いたカリフォルニアの地震調査チームが日本を訪れ、何故か、その時調査団全員が私の事務所を訪れました。その時、横浜市の「危険エネルギー」報告書と「都市安全管理システム」を解説したことから、都市データの活用による地震対策として、アメリカ・カリフォルニア州で始めてデジタルデータを活用した地震対策として採用されました。これがご縁で1982年からカリフォルニア州の地震対策プロジェクトチームのアドバイザーを務める事になりました。いろいろな局面で、私の事務所は現実の災害で得た知見を災害対策提案に生かして仕事を進めて来ましたが、より強力な場が必要だとして、1979年には財団法人・都市防災研究所を立ち上げました。その後数多くの災害調査、災害対策、都市防災不燃化、防災まちづくり、災害対応調査などを進めて参りました。

 1995年の阪神・淡路大震災が起こるまでは、日本社会は地震災害の地学的平和の時期にあり、社会全ての領域にまたがる災害対策を社会運動化する事は極めて困難な仕事でした。しかし阪神・淡路大地震によって目覚め、いろいろ活発な活動があちこちで、多彩に繰り広げられるようになりました。防災のいろいろな事業が予算化され、多くの研究者や市民団体がいろいろな活動を始めました。2000年に横浜国立大学を定年退官になり事務所に帰ってきた当時、もうすでにパイオニア的仕事の時代は終わったのではと感じ、研究所の存続に迷いました。しかし、20世紀が「科学技術」の世紀だとすると21世紀は「人の心」と科学技術の融合の世紀ではないかと考え、新しい領域の充実が必要だと考えていました。今日的課題の環境問題・地球気候変動問題や安全問題は、科学技術はもちろん、その中核的課題である人間の存在を含めなければなりません。今回、そのような研究に関心を持った、若い社会学博士の吉川忠寛君が現れ、社会学的視点を加えた災害対策、防災まちづくり、事前復興準備、事業継続計画(BCP)、危機管理、など新しい視点の社会環境問題研究の場として、防災都市計画研究所を託すことにしました。まだ暫らくは二人代表でやりますが、これまで数多くの皆様方の、ご支援、激励を賜り、幸せな人生を歩んで来たことを感謝すると共に、新任の吉川忠寛・防災都市計画研究所所長に、これまで以上の激励・ご支援のほどをよろしくお願いします。